光学フィルターが織りなす「光と色による彫刻」 光学フィルターが織りなす「光と色による彫刻」

May.28 2020

光学フィルターが織りなす「光と色による彫刻」

Profile

中西信洋

中西信洋

彫刻家

1976年福岡に生まれる。1999年東京造形大学造形学部美術学科II類(彫刻専攻)卒業、2002年京都市立芸術大学大学院美術研究科彫刻専攻修了。現在大阪府在住。国内をはじめ、ヨーロッパ、近年では中東など海外でも多く展覧会をしている。主な個展に『Saturation』大阪府立現代美術センター(2006)、『透過する風景-transparent view-』国際芸術センター青森(2011)、『六本木クロッシング2007: 未来への脈動』森美術館(2007)、『Islamic Arts Festival 19th Session -"Bunyan"』Sharjah Art Museum、アラブ首長国連邦(2016-17)などがある。彫刻を専攻し、そこで得た彫刻的経験から、人体や物体がポジとして具象的に彫り出される行為だけではなく、これを取り巻くネガの部分、つまり空間全体へ意識を拡張することで、ポジとネガ、物質的なものと非物質、見えるものと見えないものを両極から捉え、視覚化してきた。空間と時間を彫刻化したLayer Drawing シリーズ、また線とその隙間の空白部分で成り立つフリーハンドで描かれたStripe Drawing シリーズは、2000年初期から同時に取り組まれてきた主な作品シリーズである。

光学素材を使ったパブリックアートが京橋駅に登場

東京メトロ銀座線の京橋駅に、新たな名所が誕生した。彫刻家・中西信洋氏が制作したパブリックアート「Stripe Drawing – Flow of time」がそれだ。駅構内の公共スペースに設置されたこのアート作品には、AGCのグループ会社・日本真空光学社の光学フィルター「ダイクロイックミラー」が使用されている。ナノメートルの波長の光を制御する精緻な工業製品と、何よりも感性を尊ぶアーティストが出会ったとき、そこでどのような化学変化が起き、新たに何が生まれるのか——。「Flow of time」はその一つの解答だ。この作品を前にすれば、普段交わることのない両者の“幸福な出会い”に、誰もがため息をもらすに違いない。
一般公開を前に、中西氏と、日本真空光学の延与知紀氏に、制作中のエピソードや作品に込めた思いを語り合っていただいた。

(注:本取材はパブリックアート完成前の2020年2月に収録しています)

京橋に設置されたパブリックアート。約600枚のガラスが使われている。

未知の素材を使ったアート作品に挑戦

デザインを担当した中西信洋氏

中西信洋(以下、中西) 企画開始時にAGCで取り扱う素材のサンプルを何種類か見せていただいたとき、まず目に留まったのがダイクロイックミラーでした。これまでも鏡やガラスを使った作品を手がけたことはありますが、光をあてる角度や視線の位置によって色が変化するガラスは初めて見ました。この素材を使えば、季節や時間帯で色彩が変化する様を通じて、時の移ろいを表現できるのではないか。そう考えて、未知の素材を使ったアート作品に挑戦することにしました。

延与知紀(以下、延与) ダイクロイックミラーは、ガラスの表面にコーティングした薄膜によって、特定の波長の光をカットしたり透過させる機能を持たせた光学製品です。当社で量産を開始したのは昭和30年代。テレビのカラー放送が始まった頃でした。製造開始当時はカラーテレビの部材に使われていて、カラーテレビの普及を陰ながら支えた製品と言えます。


今でも液晶プロジェクターなど様々な分野で使っていただいていますが、一般の人にとってまず目にすることはないものですよね。製品自体はとてもきれいで、装飾品など人の目に触れるところに使えないものかと常々思っていました。


今回、中西さんの作品に使っていただくという連絡を受けたときは、「ついに来たか!」と、内心ガッツポーズをしました(笑)。社員のみんなも喜んでいて、完成したらぜひ見に行きたいと言っています。

日本真空光学の延与知紀氏

ダイクロイックミラーとAGCグループ

ダイクロイックミラーは、ガラスにコーティングを施し、特定の波長を透過・反射する光学製品で、光の3原色(RGB)の波長調整、成分分離、光路調整が可能です。


液晶プロジェクター等の映像分野ではカラーフィルターとして使用されるほか、色分解精度を高めることで、蛍光顕微鏡や分析機器にも利用されています。


AGCグループの日本真空光学は、1957年にダイクロイックミラーの開発に着手。1963年、日本で初めてダイクロイックミラーの量産を始めました。

「色」を表す共通言語の模索

こうして、両者の思いが一致してスタートしたプロジェクトだが、当初は話が全く噛み合わず、お互い途方に暮れたという。そこには、「色」に対する決定的な認識の違いがあった。


中西 私は新しい材料を使うことに興味があり、今回も新素材での制作がとても楽しみでした。しかし、話を進めるうちに、これは大変なことになったぞと、次第に不安が頭をもたげてきました。というのも、これまで私は、画材屋に行って絵の具の色を選ぶように、色とはまるで実体のあるもののように思っていました。たとえ現物がなくても、カラーチャートがあれば自由に色を選べます。しかし、ダイクロイックミラーは薄膜で光をコントロールする機能製品です。色の定義が違うので、どういう指示を出せば自分の求める色になるのかわからない。つまり、お互いに共通の言語がないことに気づいたのです。ですから最初のうち、延与さんとは宇宙人と話しているように感じました(笑)。

延与 中西さんが視覚で色を捉えているのに対し、私たちは光をスペクトル(数値)で理解していますので、「緑色にしてほしい」と言われても対応できません。「500ナノから520ナノの波長のものがほしい」と言ってもらえればすぐに提供できるのですが。ビジネスでは、お客様が指定する波長を分離するダイクロイックミラーを製作するのが一般的です。例えばDNAシーケンサーと呼ばれる癌医療・創薬に貢献している分析機器では、ダイクロイックミラーで特定の波長を分離することで、検体から発せられる微弱光を取り出しています。
とはいえ、一般の人に同じように波長を指定してもらうのは難しいですね。しかも、我々は光をRGBに分解するのに対し、中西さんの属する世界で色はCMYKで表わします。これではそもそも話が通じるわけがありません(笑)。

ダイクロイックミラーの色サンプル

中西 話が通じないなら歩み寄るしかないと思って、本を取り寄せて勉強しました。もちろん難しくてほとんど役に立ちませんでしたが、わかったことが一つだけあります。それは、色彩を光で表わす世界は、僕らがCMYKで表現する色とは全く違うものだということです。ガラスを通した光の色彩は日常私が接している絵の具のような色とは異なり、周囲を取り巻く光の質や方向、重なり方によって全く異なる色彩をつくり出します。これは自然との関わりの中で生まれるいわば神の領域の色であり、人間が安易に制御できるものではありません。そのため、今回のアート作品は光の世界で制作をしているような感覚で、色についてそのように考えたことも初めてのことでした。

延与 私のほうも、このままでは話が進まないと思って、市販のカラーフィルターを入手して、それを手がかりに打ち合わせを行うことにしました。中西さんが指定した色のフィルターを分光器で測定してスペクトルを再現すれば、フィルターと同じ色のダイクロイックミラーをつくることはできます。ただし、その色は光を水平に当てたときの色であって、素材の特性上、角度が変わると色もがらりと変わってしまいます。本当にそれでいいのか、不安がありました。


中西 それでも手がかりができたことで一歩前進です。しかも、延与さんのほうで、10°刻みで光を当てたときの色の見え方をカラーチャートにしてくれたことによって、ようやく制作がスムーズに動き出しました。

ガラスの存在を消し「肌で感じられる空間に漂うもの」を表現

長さ約6.5メートル、高さ約1.5メートルの巨大なプレートに、透過色の異なる大小6種類のダイクロイックミラーを約600枚配置した今回のパブリックアート。このアート作品によって、中西氏は何を表現したかったのだろうか。


中西 この作品はStripe Drawingという手法を用いたシリーズ作品の一つです。Stripe Drawingというのは、フリーハンドで描いた無数の線によって構成された線画で、線と余白の要素だけで空気の流れや湿度、光など「肌で感じられる空間に漂うもの」を表現しようとしています。 私は20年近くこの手法を用いていますが、今回の作品では、線をガラスに置き換え、「光と色による彫刻」を目指しました。彫刻は手に触れられるものを扱うのが一般的ですが、この作品は手で触ることはできないけれども確かにそこに存在する、そんな形の彫刻であり、ガラスだからこそ表現できた作品だと思います。


延与 中西さんからご覧になって、ガラスという素材の魅力は何でしょうか。


中西 ガラスを透過する光と硬質な直線、平面の美しさ、さらには、そこから感じられる緊張感がガラスの魅力だと思います。フィルムの場合はしなりがあり、風で揺らいだりして周囲に対し物質として影響を及ぼします。これに対してガラスは、しなりがなく直線で、揺らぎがないため物質として周囲に流れる風の動きから切り離されたような感じがあります。そのため、より映像として見え、透明な層の構造がよりクリアに見えるという特徴があります。


延与 完成間近の作品を拝見したのですが、なるほどこういうものになるのかと感心しました。最終的に照明をあてる角度などが決まったら、どんな見え方になるのだろうと、今からワクワクします。

施工現場で照明チェックを行う中西氏

中西 実は私もドキドキしています(笑)。無事完成して狙い通りのものができれば、ガラスは存在としては消え、それが映し出す色彩が彫刻として立ち上がってくるはずです。彫刻家として、これまでは素材をどのような形にするかを考えてきましたが、今回は、ダイクロイックミラーという素材の特性をいかに引き出すかを心がけました。このアート作品が設置されている場所は屋外にも面しているので、季節や時間帯によって光の強さと入り方が変化します。また、都心にある駅ですので、毎日たくさんの人が作品の前を行き交います。季節や天候、湿度、見る人の立ち位置、あるいはその日の気分などによって、見え方はさまざまです。その変化を通じて、時の流れを感じていただければと思います。

無限の色彩の美しさ、楽しさを多くの人に感じてほしい

今回のパブリックアートは、中西氏とAGCグループだけでなく、照明や設計施工などに多くの人が関わっている。自らの感性や美意識を何よりも大切にする彫刻家にとって、その経験から得たものは大きかったようだ。


中西 素材も制作のプロセスも初めて経験するもので、延与さんをはじめたくさんの人に教えを乞い、対話を重ねながら知識を広げていきました。私にとって、非常に刺激になる得難い経験をさせていただいたと思っています。

延与 中西さんのアート作品に関わることができて、とても楽しかったです。当社の製品は、医療分析機器からハワイの巨大望遠鏡まで、様々な分野で使われているのですが、なかなか人の目に触れることがない。この作品がきっかけとなって、業界全体のPRになればいいなと期待しています。


中西 私は大学で教鞭を執っているのですが、RGBの色の原理を教える機会はこれまであまりありませんでした。より多くの人に光学薄膜を理解してもらうために、制作に用いたガラスを並べ、照明を10°刻みで当てながら回転する装置をつくったらどうでしょうか。絵の具にはない光の世界の色の変化をカラーチャートのように見せることによって、デザインを志す人や子どもたちに、美術と科学を結びつける「表現の授業」ができるのではないかと思います。この世界には無限の色彩があり、それは環境によってどのようにも変化していく。その美しさ、楽しさを一人でも多くの人に感じていただければと思います。


AGCグループの一員である日本真空光学社は、光学薄膜に特化したその専門性によって、グループの中でも独特の存在感を発揮している。今回のアート作品への採用は、AGCグループの多彩さと新たな可能性を示していると言えそうだ。



パブリックアートの概要

公開日:2020年4月1日(水)
デザイン・制作:中西信洋
サイズ:縦 約2.0m、横 約7.0m
作品名:「Stripe Drawing – Flow of time」
設置場所:東京メトロ京橋駅 3番出口付近

この記事で取り上げられている
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Tectoric/
光学薄膜

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